2010年5月30日日曜日

碧玉と九鬼水軍 その10 

日下(くさか)という地名や語源については様々に考察されていますが、古事記でも序文で、「姓(うじ)の日下を玖沙訶と謂ひ、名の帯を多羅斯(たらし)と謂ふ、かくの如きの類は本に随て改めず」と断りを入れているほどですから、古事記が編纂された当時(8世紀)でも特別な読み方だったようです。
最初に古事記の注釈書を書いた江戸時代の本居宣長は、「かくの如きの類とは、長谷(はつせ)、春日(かすが)飛鳥(あすか)、三枝(さきくさ)などなり」と注釈をしています。三枝は現代では「さえぐさ」が一般的ですが、考えてみれば、
春日、飛鳥などなぜそう読むのか不思議といえば不思議です。
日下という読み方については、ニュージーランドのマオリ語「クタカ」の転訛であるという説(参照)や、アイヌ語で読むと意味が通じるという説もあります(参照)。
日下を素直に読むと「ひのもと」なのですが、これは日の本とも書くことができ、日本となります。倭(やまと)が日本という国名になったのは7世紀頃とされていますが、三国史記の新羅本紀では、670年の記録に「倭国が国号を日本と改めた」とあります。また、中国の文献である旧唐書(くとうしょ)や、旧唐書を宋の時代に改めた新唐書に記されている「日本」は、神武が東遷する以前の、物部氏(ニギハヤヒ)が河内に築いた日下のことであるという説もあります。そうすると、日下を「くさか」ではなく「ひのもと」と呼んでいた可能性も否定できないということになります。

たとえば、「山辺の道」は「やまべの道」と訓むこともできますが、倭名類聚抄では「夜萬乃倍」と訓が付けられています(紹介サイトをCtrl+Fキーで「夜萬乃倍」の文字検索をして下さい)。つまり当時は「やまのべの道」と訓んでいたことになります。また、この「山辺の道」というのは、古くから奈良県の三輪山周辺から北に伸びる道を指していたということです。ということは、日下も「くさか」ではなく「ひのもと」と訓んでいた可能性が高くなります。このことから、古事記序文で「日下を「くさか」と謂うのは元の読み方に従った」と書かれているということは、古事記編纂の頃には「ひのもと」と訓んでいたことも考えられます。
そうすると、古事記編纂以前に訓まれていた「くさか」は神武東遷以前、ニギハヤヒ族が河内に居住した地に付けられた地名、あるいは氏名だったということになります。
ニギハヤヒ族は最初に日本に渡ってきた地は九州の宇佐地方と思われますので、神武の東遷と同様にニギハヤヒも九州から大阪湾まで東遷してきたという説を裏付けることにもなるのです。因みに、物部氏(ニギハヤヒ族)発祥の地は佐賀県神埼郡一帯ともされています。





2010年5月26日水曜日

碧玉と九鬼水軍 その9 

前回紹介した塩田八幡宮は、兵庫県三田(さんだ)市の三輪・餅田遺跡からほど近いところにあり、その近くには日下部(くさかべ)という地名があります。
日下部は新撰姓氏録に記載されているので、元々は氏(うじ)名だったことが分かりますが、河内国(かわちのくに・大阪)と摂津国(せっつのくに・大阪と兵庫県)に居住していたとされています。(かばね)としては、連(むらじ・日下部連)、そして
宿禰(すくね・日下部宿祢)として山城国(やましろのくに・京都)に、それから首(おびと・日下部首)として和泉国(いずみのくに・大阪)に見えます。それらの地が後に地名として残ったのだと思いますが、塩田八幡宮が鎮座している神戸市北区道場町は摂津国ですので、新撰姓氏録で説明されているところだと思われます。
新撰姓氏録の河内国の日下部の説明では、「神饒速日命孫(かむにぎはやひのみこと の ひこ)、比古由支命之後也(ひこゆきのみこと の すえなり)」となっています。
神饒速日命は「碧玉と九鬼水軍その8」で紹介したニギハヤヒのことです。つまり三田市の三輪神社から神戸市北区の塩田八幡宮にかけての一帯はニギハヤヒの勢力圏だったということです。奈良の三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社の祭神は大物主命ですが、これはニギハヤヒのことです。
日本書紀では、初代天皇とされる神武天皇(カムヤマトイワレビコ)が天皇になる前に九州から東遷して、行きついたところは「河内国の草香邑(くさかむら)の青雲の白肩の津」とされています。河内国の草香とは現在の東大阪市の日下のことですが、この地が新撰姓氏録に載せられている河内国の日下部氏の勢力地だったということは容易に想像できます。
ということは、この地は神武東遷以前にすでにニギハヤヒの勢力圏になっていたということでもあります。またその後、神武が熊野から大和国(奈良県)に入った際にはニギハヤヒが現れ、神武に仕えたとされていますので、このニギハヤヒはある特定の人物の名前ではなく、代々世襲されてきた名前だということが分かります。 神武天皇については、現在ではその実在は疑われていますが、HPの「日本の歴史その九」でも述べたように、おそらく素戔男尊(すさのおのみこと)や日本武尊(やまとたけるのみこと)の東遷を重ね合わせているものと思われます。




2010年5月20日木曜日

塩田石を求めて その2

この川は塩田八幡宮から500mほど南に
流れている有馬(ありま)川 です
この川の上流には熊野神社と大歳神社が
並んで建っているのに興味が湧くのですが
このことは次回述べます





こちらは上の写真の反対側、東側の風景です
月見橋の下から眺めた風景ですが
空は広く解放感があり
奥の山から満月が昇っていく様子は
すばらしいだろうと想像できます
在原業平の兄である行平など
平安時代の歌人たちがここを訪れたのも
納得できるというものです
とは言うものの、昔の流れは
塩田八幡宮の近くだったということで
前回紹介したように、そこに今では
厳島神社の小さな社が建てられています






さて、塩田石なるものの手掛かりでも
見つからないものかと
有馬川の岸に地層を探しましたが
現在ではほとんど護岸工事が為されていて
地層が見えるところはありませんでした

それならば、河原の石を見てみようと
河原に降りましたが
転石はほとんどが花崗岩で
その他の石も石英質の硬いものばかりでした






ところが、場所によっては
上の写真のように風化が進んで
柔らかそうな石も散見されたので
塩田石の期待はできそうです






上の石を花崗岩で叩いてみると
ボロリと剥がれました
面を擦ってみると密度も適度にあり
砥石として使えそうな雰囲気です
砂岩か凝灰岩が見分けづらいところですが
どうも凝灰岩のような感じがします
出土した塩田石はもっと粒子が緻密なので
塩田石とは言えないかもしれませんが
砥石にはなりそうです





持って帰って面を出し
早速刃物を当ててみました
サリサリと反応しますね・・
石の質感や刃物への当たり具合は
但馬砥によく似ています(参照
これは凝灰岩のようですね





傷は大きめで、砥石としては荒砥の部類に入ります
比較的傷が均一なので
使えないこともありません
古代の人だったら砥石として使っていたでしょうね





参考までに、これは出土した塩田石です
緻密なので、現在使われている砥石としては
愛知県に産していた三河名倉砥が似ています
これも凝灰岩ですが今では掘られていません

今回は川での探索となりましたが
次回は山を探してみたいと思っています

2010年5月16日日曜日

塩田石を求めて

兵庫県三田(さんだ)市にある
三輪・餅田遺跡から出土した砥石は
塩田石と呼ばれているということは
前回述べましたが(参照
その塩田石が採れるという
神戸市北区道場塩田に行ってきました

ここ丹波篠山から三田市
あるいは神戸の道場に行くには
いくつかのルートがありますが
今回は篠山の後川(しつかわ)から三田市に
抜ける道を選びました
私のお気に入りのコースです
山々の若葉が萌える合間に藤の花の紫色が
なんとも云えぬ風情を醸し出していました
まさに心が洗われる風景です

後川を抜け、三田市が近づくと
山の様相が変わります
上の山はいつも気になるのですが
今回はカメラを持って出ていたので写真に収めました
この、定規で引いたような見事な三角形の山は何だ?
日本にもピラミッドがあるという噂は耳にするが
これもその一つかもしれません・・


塩田石を探す前にまず塩田八幡宮
挨拶に行ってきました
200mほどの参道が終わる頃
杜の鳥居が見えてきました
手前右に見える白い鳥居は厳島神社のものです


これが厳島神社
かわいらしい社でした
鳥居の右脇には石碑が建てられていて
「旧月見橋跡」とありました
このことについては次回述べることにして
歩を進めることにします



さて、いよいよ塩田八幡宮の杜です
さあ!と足を進めようとして
ふいと横に目をやると
何やら立派な門があります
日に焼けて黒くなった板に薄くなった墨書きの
看板をよく見てみると「塩田八幡宮社務所」
とありました



なかなか立派・・屋根に目をやると
軒瓦が左三つ巴ではないですか・・
ま、今回はこれが目的ではないので・・
と自分に言い聞かせ歩を進めました

長い石段を登りきると
立派な社殿であります
参拝を済ませ、左脇にある社務所
塩田石について尋ねたら
知らないということでしたが
この地がなぜ塩田というのかという
由来を教えてくれました
この地の岩盤には塩気が含まれていて
それが湧き水に溶け出ているから
塩田と言うのだそうであります
ということは、その塩分を含んだ岩盤が
塩田石なのだろうか・・
とりあえず、塩田八幡宮の近くを流れている
有馬川の河原の様子を見てみることにしました
その様子は次回報告することにします

社務所の方にお礼を述べて
引き返そうとしたら
あ、宜しかったらこれをどうぞ
と神社のパンフレットを下さいました
それを見てビックリ
この神社の社紋は
なんと左三つ巴ではないですか・・



2010年5月12日水曜日

三輪・餅田遺跡の碧玉と塩田石


兵庫県三田(さんだ)市の三輪・餅田遺跡
新たに発見された加工途中の碧玉製管玉と
砥石(塩田石)の説明会に先日足を運びました



展示ケースの下の段に見える弥生時代の土器は
地元で焼かれたものだろうということでした
独特の雰囲気がありました
隣接する丹波や播磨とは全く違う感じです


これが今回新たに発見された砥石です
この石は、塩田石とも呼ばれているそうで
三輪・餅田遺跡から南東に1,5kmほど離れた
地域で見られるそうです 地図参照
興味深いのは、その地に塩田八幡宮があり
その神社のすぐ近くには厳島神社があるのです



砥石の側に使われた跡が残っていました
こうして、手に取って観察させてもらえたのは幸運でした



そして、これも今回の発掘で新たに発見された
加工途中の碧玉(へきぎょく)製管玉(くだたま)です
このような加工を上の砥石で行ったのだと思いますが
上の砥石の削れ方は管玉ではないような気がします
弥生時代から古墳時代にかけての
管玉の側は直線なので、これを削った跡は
もっと直線的になるはずです


上の砥石の減り方は勾玉のように
側が丸いものを削った跡だと思われるのです



この管玉は加工途中、おそらく穴を開けている時に割れたもののようですが


私が 興味深いのは、反対側のこれから穴を開けようとしていた跡なのです
よく観察すると、ポツポツと針のようなもので突いた跡が見られます

私は、自分で勾玉を作るのでよく分かるのですが(参照・自作勾玉
硬い石の平らなところに
穴を開けようとした場合
最初の取っ掛かりが必要で
それには鋼(はがね)の錐のようなもので
突くのが最も有効なのです
そうすると、自ずと上の写真のような
白いポツポツの跡ができるのです(参照



参考までに、これらは昨年2009年に
神戸の雲井遺跡で発見されたものです
三輪・餅田遺跡のものと同様の碧玉です