2016年6月29日水曜日

古いMandolinの修復 接着を剝す


昨日YouTubeにUPした動画
説明として以下を紹介しておきます

これは修復中の古いマンドリンですが

内部の補強材がほとんど剥がれているので

これらを一旦取り外し
これから接着しなおすところです

これはYouTubeにUPした動画を
撮影し始めた状態ですが
接着剤を軟化させるため
補強材の接着部にキッチンペーパーを置き
それに水を含ませ
途中2時間ほどおきに水を補給し
6時間ほど経った状態です

これは動画撮影後の状態
白く見えるのは、これまで為されてきた修理・修復で
使われた水性ボンドと思われる接着剤です
画像向って左端の補強材はニカワで接着されているので
難なく剝すことができました

中央のものも水性ボンどが軟化していたので
簡単に剥がせましたが
右端のものには白い水性ボンドの他
エポキシ系の接着剤のようなものが使われていて
水では軟化しておらず
剝すのに苦労しました

動画撮影後
以前の修理で接着されていた
他の部材も剥がしました

ついでに歪んだ響板を
電熱アイロンで矯正

以上、水でニカワを軟化させて
接着部を剝す方法を紹介しましたが

次に電熱アイロンでニカワを軟化させて
接着部を剝す方法を紹介しておきます
以下・・

高温に設定した電熱アイロンを当てているところ

ニカワが軟化したのを見計らって
ヘラを差し込んだところ
これをグルリと周囲に施し

響板を剝した状態

この楽器は電熱アイロンで剝すことができましたが
響板の周囲に複雑な装飾が入っている場合は
横から鋸でカットする場合もあります

次にブリッジを剝す


完了

2016年6月28日火曜日

滋賀県高島・妙覚山産仕上砥 仕上砥とは思えない粒度に驚き 

滋賀県高島、妙覚山産の仕上砥を入手
コッパですがかなり大きめ
厚みは約3.5cm

層は八枚といった感じ・・
横桟(石目の層が横になっている)ですが
私は気にしません

程よい硬さでよく反応します
砥泥は邪魔にならず、底力も充分
研ぎ感は仕上砥というよりも
中砥の青砥といった感じです

研ぎ上がりも緻密で精緻な
優れた青砥によく似ています


前の段階の中砥ぎの最終研ぎでは
福井県産の寺中砥Jichu-toと思われる
中砥を使いましたが

中砥のこちらの方が粒度は細かい感じです


これは梅ヶ畑奥殿産の
粗めの仕上砥

それでも今回の高島妙覚山産の
仕上砥よりはかなり細かく研ぎ上がります


試しにハイス全鋼鉋を研いでみたら
驚くほど良く反応します

やや荒い研ぎ上がりですが
このまま仕事で使える状態です


ハイス鉋一挙6枚研ぎ
完了

2016年6月25日土曜日

高口定雄氏の興味深い説

以前、こちらのブログで紹介した助川砥についての投稿にコメントを頂いた
高口定雄氏(茨城県日立市在住)の砥石に関する独自の説を紹介しておきたいと思います。
たいへん興味深い内容で、古代史に関して多くの示唆が含まれています。

茨城県産大泉砥、栃木県産深沢砥と、地名の関係について情報提供させて頂きます。
2件の砥石産地は八溝山系でごく近傍ですので、同一地質と考えられます。この地にも、黒部関係地名「クロカタ」が付近にあります。カタカナ地名でして、漢字で書くと「黒方」だと推定します。
1.地名「クロカタ」 栃木県芳賀郡茂木町小貫小字クロカタ
< くろべ → くろぼ、くろぼう→ 黒方 → くろかた >の変化をしたと推定
「船木」地名と近接した事例が長崎県にあります。
・長崎県五島市岐宿町岐宿小字黒方(読み くろかた)
・長崎県五島市岐宿町岐宿小字船木ノ元
・長崎県五島市岐宿町岐宿小字舟木ノ山
なお、岐宿町から西へ約3kmの岐宿町白石は、遣唐使船が、中国に向けて出発する前に
停泊した「川原浦」の比定地とされています。

2.砥石産地と「クロカタ」の距離
(1)深沢砥: 栃木県芳賀郡茂木町深沢上深沢 約3km
(2)大泉砥: 茨城県桜川市大泉          約9km

3.茨城県桜川市岩瀬小字北着にある長辺寺山古墳(5世紀後半、前方後円墳)との距離 
(1)深沢砥: 栃木県芳賀郡茂木町深沢上深沢 約7km
(2)大泉砥: 茨城県桜川市大泉          約5km

4.なお、長辺寺山古墳の前を流れる桜川は、最終的に茨城県土浦市の霞ヶ浦へ流れ込みますが、桜川河口部の茨城県土浦市烏山には、古墳時代前期の玉作工房である烏山遺跡があります。

5.深沢砥の栃木県芳賀郡茂木町深沢から南へ約3kmは、茨城県桜川市平沢ですが、小字「トットリ」があります。常識的には漢字で書くと「鳥取」となりますが、氏族伝承で鳥取と記載したのであって、元々の地名発祥時の意味は、「砥取」に従事する場所だったろうと推定します。氏族伝承や系図では良く見せたいので、脚色することがままあるようです。 
以上のことからも、古代人は意図を持って、金属鉱物資源を求めて移動していたのではないでしょうか。

私は京都地名研究会の所属し、弥生時代・古墳時代にさかのぼる地名を抽出することを趣味にしています。そういった観点から、京都府亀岡市と茨城県日立市で砥石、水晶、玉作に関わる地名の共通点があるようなので、少し述べてみたいと思います。
砥石は玉作にも使用され、亀岡市では弥生時代中期には砥石を採掘していたと推定されますが、一方、茨城県日立市は古墳時代前期からの採掘、流通と考古学者が公表しています。京都府亀岡市の砥取家さんが砥石採掘されている丸尾山から直線距離約10kmに、亀岡市畑野町千ケ畑小字クルビ谷があります。また畑野町広野では水晶を産出するとの記録もあります。クルビはクルベ、クロベと同じで漢字で書くと黒部とも書きます。
茨城県日立市の砥石山の約1km直近に、小字「黒目作」(くろめさく)がありますが、「くろべ」の「ベ」が「メ」に変化したものです。「余部」が「余目」に変化しているのと同じ理屈です。作は坂、谷、沢などの意味があります。
日立市の砥石山がある山地を多賀山地といいますが、水晶、滑石、蛇紋岩や金、銅を産出しました。実は「黒目作」と全く同じ地名が、日本でもう1ケ所あります。新潟県佐渡市畑野黒目作です。この近くに弥生時代中期の下畑玉作遺跡があり、玉作工房が発見されてますが、近くで瑪瑙(メノウ)原石も取れます。
茨城県域は、古墳時代初頭に一斉に五領式土器(埼玉県東松山市五領遺跡)に切り替わりますが、埼玉県東松山市の五領遺跡から約4kmは東松山町大黒部(おおくろべ)で、やはり「黒部」地名があります。大黒部から約1kmに古墳時代前期の反町遺跡があり、玉作工房が発見され、主に水晶工房でした。その水晶加工技法から、京都府京丹後市弥栄町の奈具岡遺跡から工人が移住してきたと考古学者は推定、報告しています。奈具岡遺跡から約1kmは京丹後市弥栄町黒部で、やはり「黒部」地名があります。

奈良県磯城郡田原本町黒部から約2km西には、古墳時代前期の十六面遺跡があり、玉作工房が発見されています。また、奈良県桜井市倉橋クロメから約5kmの上之庄遺跡は古墳時代前期の遺跡ですが、これも玉作工房が発見されています。
玉作で有名なのは出雲ですが、島根県松江市玉湯町玉造から約5kmに黒目山(東忌部町)があります。以上のように、資源を求めて古代人は移動し、地名も残していたようです。砥石も重要な資源だったと思います。京都市右京区梅ケ畑より弥生時代中期の銅鐸が出土していますが、梅ケ畑は仕上げ砥産地です。この砥石の資源により富を蓄え、銅鐸を入手したのではないかと勝手な想像をしています。歴史を語る重要なキーワードのひとつとして、「砥石」は重要ではないでしょうか。

三種の神器の素材である銅、鉄、玉(威信財原料、交易材料)の採掘・加工技術を持ち、強力な水運技術をもった人達が、古代ヤマト王権の重要な構成メンバーであったろうと推測します。
特に、縄文時代から蓄積した技術であるヒスイなどの玉が、中国・朝鮮半島との重要な交易材料だったのではないでしょうか。
因みに、「黒部」「黒目」地名が、北海道~鹿児島県まで、存在するので、海運力の優れた集団に関わる地名だったのではないかと考えます。具体的的には、中国の「呉」地域からの渡来人に関わると推測してます。実証はできませんが・・

1)北海道檜山郡江差町 小黒部(おぐろっぺ) 約8kmに笹山鉱山(銅 金)
2)鹿児島県大島郡徳之島町 魚津黒目塔(くろめとう)約2kmに下久志鉱山(銅)
また、沖縄県には「久米島」もあり、長崎県五島市には、黒部地名の変形<くろべ⇒くろぼ、くろぼう>である「黒方」地名もあり、朝鮮半島、中国本土との交易ルートを確保している様子が、地名からうかがえます。
前回記載した十六面遺跡には同じ地内に「穴虫(あなむし)」という小字地名が記録されています。同じ「穴虫」地名が、奈良県香芝市の二上山にあり、金剛砂産地です。このことから、金剛砂を玉作にも使用できたことが地名から推測されます。ただし、遺跡から金剛砂が出土しないと実証にはなりませんが・・。長野県域も古代玉作遺跡が発掘されています。そして、地名「穴虫」、「黒部」地名もあり、銅鐸も出土している先進的な地域です。弥生時代後期には「箱清水式土器」という土器が盛んに使用されましたが、土器の表面をベンガラ(酸化第2鉄)で赤く採色しており、鉄に強い集団がいたことが推測されます。地名「穴虫」がその背景を象徴していると感じます。
「穴虫」の語源は、あなぶき(穴吹)⇒穴伏⇒あなぶし⇒あなむし⇒穴虫と想定しており、朝鮮半島の「あな、あや、かや」地域からの鉄技術に強い渡来人に起因する地名ではないかと考えています。

福岡県については、糟屋郡宇美町を訪問したことがあります。宇美町は古代不彌国の候補地の一つということで興味があり、光正寺古墳、宇美八幡宮、宇美町郷土博物館なども見てきました。
真の目的は、宇美町に、黒部と同じである小字「黒坊」があることを知り、宇美町役場で、地図上の位置を確認特定する事でした。黒坊は黒部と同じです。特定はできたのですが、何故そこに黒部関連地名があるのか、なぜそこに光正寺古墳があるのかいまだによく理解できていません。光正寺古墳から直線距離で約6kmに、篠栗鉱山(銅山 糟屋郡篠栗町)があるのですが、山越えになりますし、篠栗鉱山に行くとすれば、多々良川から直接行った方が早い気がします。現在の仮説は、福岡県小郡市津古にも、黒坊地名があるので、「大宰府経由で有明海へ抜ける交通の要衝地を確保するため」と考えています。ところで、糟屋郡には、あと一カ所 銅山があります。
糟屋郡久山町久原に複数の鉱山があります。多々良川支流の久原川上流です。その多々良川が博多湾に流れでる河口部左岸に、筥崎八幡宮があり、近くの九州大学敷地から銅鐸か出土しています。九州大学北側の箱崎には、小字「コロメキ」があり、この小字地名は、「くろぶき(黒吹)」からの変化地名です。「くろ(黒)」を「ころ」と読む事例があり、「くろぶき→ころぶき→ころべき→ころめき」という変化を想定しています。「黒吹」という地名が、兵庫県朝来市生野町の生野銀山から約1kmの竹原野にあります。金、銀、銅の鉱物つながり地名ですね。黒吹、穴吹は、同時代の地名だと考えています。

兵庫県篠山市に関しては黒部関連地名調査で、訪問したことがあります。
・篠山市打坂 黒辺
・篠山市高倉 クルビ谷
しかし、金属鉱物資源との関係がよくわかりませんでした。疑問のままです。
丹波市春日町には、山中鉱山(所在地不明)という銅山があった記録があるので、あるいは篠山市側にも鉱脈が続いていた可能性があるのですが、記録が無いためデータとしては採用できません。ただ、弥生時代後期の「内場山墳丘墓」が、前記2件地名の中間部 篠山市下板井 にあるので、もう少し研究する必要を感じています。
篠山市が武庫川にもつながっていることは、福知山市と同様に、日本海と瀬戸内海を、弥生時代などの古代から往来できる地理的好条件があったと言えます。
丹波市山南町の阿草の南方に山中鉱山という銅鉱山があることがわかりました。味間と近接しています。篠山市火打岩付近には、珪石を産出する畑鉱山があったとのことなので、篠山市で水晶が取れた可能性も考えられます。近くの篠山市畑宮に、佐佐婆(ささば)神社があり、延喜式式内社で、江戸時代には「楽々庭明神」とも称していたとのことです。篠山市の「ささ」との関係を含めて、砂鉄を意味していそうで、気になります。
山陰地方の鳥取県西伯郡伯耆町宮原に、「楽々福神社」があり、「楽々(ささ)」とは砂鉄のことをいうそうです。この神社から約7KMの日野郡江府町吉原には、小字「小黒目(こぐろめ)」があります。余談ですが、有名な楽々福神社としては、鳥取県日野郡日南町宮内にも楽々神社があり、この神社から北へ約7KMのところにも、やはり、小字「小黒目(こぐろめ)」があります。この小黒目から西へ約6KMの大字阿毘縁(あびれ)付近は砂鉄産地です。また同じく小黒目から北東へ約6KMの日南町印賀も砂鉄産地で、「印賀鋼」として有名なブランド鋼です。この印賀鋼は、昭和天皇が皇太子になられる時の儀式で用いた剣に採用されたとのことです。
それから、佐々婆神社が、篠山市以外にないかと調べていたところ、1件発見しました。なんと、京都府亀岡市猪倉に、篠葉神社(ささば)がありました。猪倉も砥石産地ですね。篠葉神社から
1.東側へ約4kmの鹿谷に、大谷鉱山(銅山)
2.北東へ、約4kmの北ノ庄に小字「穴虫」
3.南西へ約約8kmに、亀岡市畑野町千ヶ畑「クルビ谷」
  クルビ=黒部=黒辺
篠山市と似た地名があることが共通しています。

篠山市の佐々婆神社の御祭神である「志布美宿禰」について調べていましたら、京都府京丹後市にも、「志布美宿禰」と同じと思われる「志夫美宿禰」を祭神とする神社があり、付近の地名も篠山市と共通するので、ご紹介しておきたいと思います。
篠山市と京丹後市は古代において、金属鉱物資源と人の移動で、極めて関係性が高いことの証だと思います。
志布比神社: 京都府京丹後市丹後町大山
祭神 志夫美宿禰命(しぶみすくねのみこと)ほか
関連地名、遺跡
(1)約5km 京丹後市弥栄町 黒部
(2)約4km 京丹後市網野町掛津 穴虫
(3)約6km 京丹後市弥栄町 船木
(4)約6km 京丹後市弥栄町 鳥取
(5)約5km 京丹後市弥栄町 井辺(いのべ)←「いんべ」と読むこともできる
(6)約4km 京丹後市弥栄町国久 小字スイショヤマ←水晶山と思われる
(7)約6km 京丹後市弥栄町野中小字トイシダニ←砥石谷と思われる
(8)約6km 京丹後市弥栄町溝谷に奈具岡遺跡
弥生時代中期の玉作工房
水晶加工工程がわかる。鉄製品、砥石出土
(9)約12km 京丹後市峰山町荒山小字キノベ→篠山市東木之部、西木之部
なお、キノベは、吉備に同じと考えられます。キビ→キベ→連帯助詞「の」を追加し「キノベ」と変化。以上の地名はまた、奈良県にもあります。

篠山市下板井の弥生時代後期の内場山墳丘墓群出土の土器棺墓には四国や山陰地方の影響を強く受けた土器が供えられていました。
「四国」と大字「東木之部、西木之部(きのべ)」の二つのキーワードから、私は、遠く離れた四国の徳島県徳島市国府町矢野の気延山(きのべやま)をすぐに思い出します。気延山は蛇紋岩産地で、蛇紋岩は玉作にも使用されます。気延山麓の国府町矢野には、玉作工房が出土した弥生時代後期の矢野遺跡があります。
<矢野遺跡>徳島市国府町矢野
1.蛇紋岩製勾玉未製品出土した玉作工房
2.古墳時代前期の、鉄器を加工した鍛冶工房から、壺に入れた砂鉄が出土
3.約6kmにはザクロ石産地の眉山(びざん)ザクロ石の細かいものが金剛砂→金剛砂は砥材。
キノベは、吉備に同じと考えてます。キビ→キベ→連体助詞「ノ」を追加しキノベと変化したと推定。
砂鉄出土に大きな注意を払いたいところです。
篠山市下板井の「内場山弥生墳丘墓」は弥生時代の遺跡ですが、四国や山陰地方の影響を強く受けた土器が出土しているとのことです。鳥取県も山陰地方ですので、前記の日南町と篠山市との関係があるかもしれませんね。四国地方との関係といえば、地名で、次のことを思い出します。篠山市鷲尾に小字「穴虫(あなむし)」があります。これは、以前お話したように、「穴吹」から変化した地名です。四国にも「穴吹」地名があります。
徳島県美馬市穴吹町の「穴吹」ですが、東側に隣接するのは、吉野川市山川町で、古代忌部(いんべ)郷で銅鉱山が多いところです。なお、出雲玉作で有名な島根県玉湯町玉造の東側は、西忌部町、東忌部町です。東忌部町には、「黒目山」という山があります。
このように、兵庫県篠山市、鳥取県日野郡日南町、島根県松江市、徳島県美馬市・吉野川市で、似たような地名があることがわかります。
篠山市下板井の「内場山弥生墳丘墓」から、四国や山陰の影響を強く受けた土器が出土することと、地名、鉱物が矛盾なく、相関しているように見えます。
以下は、私なりに興味を覚える同様な地名と、共通性を調べた結果の一部です。
(1)兵庫県養父市八鹿町宿南小字「ソチ口」(読み ソチクチ)
約6km兵庫県豊岡市日高町久田谷より銅鐸出土、弥生時代
約6km日高町水上は、砥石産地 「水上砥」
約8km日高町八代はヒスイ産地
約11km日高町羽尻に但馬三方鉱山 金、銀、銅、亜鉛、鉛
約4km日高町久斗に小字「クルビ」←クルビは黒部に同一
約6km日高町伊府(読み イブ)←伊福の変形地名

(2)新潟県柏崎市「曽地」(読み ソチ)
約2KM柏崎市吉井に弥生時代中期後半の玉作工房「下谷地遺跡」
菅玉製法は佐渡市の新穂遺跡とおなじ技法を採用。
佐渡市との交流が想定される
約3km柏崎市西谷に弥生時代後期の玉作工房「西谷遺跡」
約6km柏崎市西山町黒部←地名「黒部」
約6km柏崎市西山町二田に物部神社←二田物部

(3)愛知県豊田市足助町「曽地坂」(読み ソウヂサカ)
現在は小字消失
約9km豊田市手呂町より銅鐸出土 弥生時代
約8km豊田市力石町に小字「黒見(くろみ)」←黒部に同じ
約6km豊田市東広瀬町に小字「船木(ふなぎ)」←船木、舟木は
黒部と良く一緒にでる地名
*舟木と黒部の地名共出関係は、谷川健一、田中巽の有名な説があります。
私もまったく同感です。

3.長野県中野市柳沢出土の銅鐸(弥生時代中期後半)に関連して発見報道当時、
現地に行き、見学と地名調査を行いました。
出土地から約6Kmは、山岸小字黒ボウ←「黒ボウ」は黒部の変形。 
黒坊とも記されたりする
約8km長野県下高井郡木島平村往郷に根塚遺跡 西暦100年頃
韓国・加悦系の渦巻把手鉄剣出土
約8km長野県中野市栗林に栗林遺跡 弥生時代中期の標識土器出土
約9km長野県中野市日野は、かつて銅鉱産出地
約10km長野県中野市間山に間山遺跡 弥生時代後期
愛知県豊川市を標識とする東海欠山式土器出土
石川県金沢市月影町を標識とする北陸月影式土器出土
愛知県岩倉市丹陽町伝法寺を標識とする元屋敷系土器出土
間山遺跡から約5kmは長野県上高井郡高山村黒部←黒部地名
黒部一帯は弥生時代後期の土器出土
間山遺跡から約12kmは 長野県須坂市八町 須坂鉱山で銅を産出した
間山遺跡から約14kmは、長野市小島 小島境遺跡 古墳時代前期の玉作工房
緑色凝灰岩・鉄石英などの未製品と砥石ほか出土

4.以下は私の仮説です。地名「黒部」を使用するグループは、水運に長け、金属鉱物資源全般の知識、技術を持っているように見受けられます。中国の呉国あるいは楚国からの渡来した人達がいたと考えています。そして、中国、朝鮮半島を往来し、交易をすることで古代ヤマト国内で有力なメンバーにのし上がっていったのでしょう。
卑弥呼は巫女だったと思いますが、中国のなかで巫女が最も盛んだったのは、古代中国の「楚」です。楚は紀元前223年に滅びます。滅びた時に、日本に渡来した人たちが居たのではないかと。紀元前223年頃は、日本は弥生時代中期です。楚は「清楚」「四面楚歌」などの用語使用がありますが、「楚」にはバラの花の意味もあります。
楚の中心地は、現在の湖南省、湖北省付近だったようですが、この地域には、ミャオ族が多く住み、雲南省、べベトナム、ラオス、タイにも分布しています。ドンソン文化を共有しているようです。また、長らく文字を持たなかったといわれています。余談ですが、ミャオ族の人達は、自分達の先祖は、兵主神「蚩尤・しゆう」だと主張しています。

大阪府茨木市は銅鐸鋳型を出土していますが、「いばら」+「き: 場所を意味する」と考えています。茨城県も、金属鉱物資源を求めて来た人達が、同じ「いばら+き」の地名を使うグループだったのでしょう。バラの花の三角のトゲが、中国ドンソン文化の銅鼓にも採用され、日本弥生時代の銅鐸、古墳時代初期の三角縁心神獣鏡にも継続して採用されている背景は、中国の古代「楚」の人たちが渡来したからだと思われるのです。


2016年6月24日金曜日

ギタリスト長谷川郁夫さん


数日前のことですが
ギタリストの長谷川郁夫さんが
遠方、東京からルネッサンス・ギターを受け取りに
来て下さいました

長谷川さんは古楽器も演奏される
貴重なクラシックギタリストで
指頭弾きでクラシックギターも演奏され
弦もガット弦を主に使用されています

YouTube動画ご覧下さい


ルネッサンスギターも
難なく弾きこなされます

長谷川さんは柔軟な発想でギターという楽器を
捉えておられるので
製作をする立場の者として
たいへん興味深く
いろいろと刺激を受けることができました


20年ほど前、私は弦楽器製作家協会に所属していましたが
そのときの東京での展示会で
長谷川さんは私の楽器も見て下さったということで
たいへん驚きました・・

2016年6月22日水曜日

小さなアマガエルと梅雨時の花々

梅雨真っ盛りといった時期
田圃で育ったアマガエルが
オタマジャクシから成体になる時期でもあります
そんな小さなアマガエルが
あちこちでピョンピョンと跳ねていますが


こうして植木の葉によじ登るお方もあります


これは野生化したカラーの花でしょうか
毎年今の時期に同じところに咲きます


そこにも小さなアマガエルが・・

2016年6月19日日曜日

2016年9月4日 午後のくつろぎコンサート 



こちらは兵庫県伊丹市で行われるコンサート
9月4日(日)午後2時開演
(別ウインドウ又は別タブで開くと
大きな画像を見ることができます)

午後のくつろぎコンサート
知人が自主企画で30年続けてきたもので
今回は30周年ということで
企画を私にやってほしい、という要望があり
ギタリストの金谷幸三さんと
古楽歌手(ソプラノ)の丸谷晶子さんにお願いしました

チラシも私が作りましたが
出演者の写真の構成上
ギタリストを反転せざるを得ず
左利きのギタリストになりました・・
(金谷氏の了承済み)
当日はどちらで演奏するのでしょうか・・笑 

当日の演奏曲目から
蘇州夜曲をリンクしておきます

2016年6月17日金曜日

覚書として・・稲城と投石兵集団

以前、このブログで紹介した横枕遺跡
この遺跡についてはこちらのHPでも述べていますが
時代は旧石器時代から弥生時代とされています


この2枚の写真は私が
遺跡ウォーカー・サイトに投稿したものですが
これは1998年発行の
志免町文化財調査報告書から
部分的に転載したものです
下の写真の左の卵形の石は投弾と説明されています
時代は弥生時代前期頃のようですが
この投石を使った兵士集団が住んでいたと思われる地が
この横枕遺跡の近く(数百メートル西)にあるのです
稲城(イナギ)という所です
現在は地名は残っていませんが
交差点の名前とバス亭に名残りが残っています

イナギを投石弾兵がいた所とする説は
鹿島曻氏によるものですが
そのことを川崎真治氏はさらに詳しく解説しています
それを要約すると
ウル・シュメール語で
石(いさご)を紐で投げることをイグナと言った
イグナのイは「する」とう動詞
グは紐という意味、ナは石の意味
投石弾兵も同じくイグナと言った
それがセム語になると語順が変わってイナグとなった
このイナグの語尾が屈折したのが
古代日本語のイナギとしています
漢字では稲城、稲置、因支と書きますが
弥生時代~古墳時代の日本では
このイナギという言葉が投石弾兵の隊長
あるいは地方豪族の姓(かばね)や氏名だったとしています
川崎氏はこのことについて例を挙げ
古事記や日本書紀で日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が
東征を命じられた際に
尾張の田子稲置(タゴノイナギ)や
乳近稲置(チヂカノイナギ)を
遠征軍に加えた訳がはっきりすると述べています




投石紐(スリング・出典サイト

2016年6月13日月曜日

工房の様子 特注Lacoteタイプの製作状況

製作中の特注19世紀ギター
ラコート・タイプ(弦長630mm)の製作状況
ネックのヒール・キャップを切り出しているところ


接着

そして指板を接着


ブリッジを作っていく

白柿Shirakakiで罫書いているところ
このブリッジは修復中のマンドリンのものですが
参考のためにUPしておきます




白柿の裏の先端部は
このように仕上げておくと
スコヤなど定規を傷付けることがなく
何かと便利






輪郭の出来上がり

こちらはラコートタイプのブリッジ









ヤスリで表面を仕上げた状態

この後サンドペーパーで仕上げて接着する

ニカワ接着を終えた状態