2011年9月28日水曜日

スキャロップscallop指板

今日は製作中のラプレヴォット・タイプの1台を
スキャロップ指板に加工しました 参照
途中、四方反り鉋の調整や
新たに届いた寸八鉋の仕込みを行ったので
スキャロップ加工は鉋削りまでとしました
動画を参照ください








出来上がりの様子

2011年9月27日火曜日

丹波霧


丹波篠山(ささやま)の朝
篠山は標高250mほどの高原盆地なので
この季節、朝は濃い霧に包まれます






霧とコスモス





霧に蔽われた朝日とヒガンバナ 




ヒガンバナと黒大豆
黒大豆は10月5日頃から
枝豆として出荷されます

2011年9月26日月曜日

今日の工房 フレット溝切り

今回製作中の二台の特注ラプレヴォット・タイプは
どちらも真鍮の板フレットを入れます

 板フレットの厚みは1mm
鋸はアサリ(刃の左右の曲げ具合)
自分で調整した畦引き鋸を使います
フレットの打ち込み具合は
音に大きな影響を及ぼすので気を遣います

鋸の切り溝の幅は人間がやることですから
常に一定とはなりません
また、硬い黒檀材を切るので鋸のアサリも
だんだん狭くなっていきます
ですから板フレットの厚みも、圧延ロールで
微調整を行い、打ち込む溝に合わせていきます





 溝の深さもできるだけ一定にしたおいた方が
後々の作業が楽なので
溝切り作業は時間を惜しまず、じっくりと取り組みます







作業の息抜きに工房の裏を眺めます
ツユクサとヒガンバナ
そして色付いた柿の実が同時に見られる
というのは珍しい気がします・・



2011年9月20日火曜日

アルコールニスの原料、セラックを薬研で砕く シェラック・ニス


今日から本格的に
ニス塗りを行います


ニス塗りの動画は
参照ください
フレンチ・ポリッシュ仕上は

アルコール・ニスの
レモン・セラックが 
ちょっと足りないようなので
今のうちに
溶かしておこうと思います
これはセラック・レモンの
原料でフレーク状に
なっています 

レモン・セラックは
溶解しにくいので
できるだけ細かく砕きますが
まず日本で古来から
使われてきた
薬研(ヤゲン)
おおまかに砕きます
この最初の砕きは
ヨーロッパでは
布に包んで槌で叩いたり
するようですが
いろいろと試した結果
この薬研が最も具合が
いいのです

 薬研はその字のとおり
本来は漢方薬などを
砕くために考案されたものの
ようですが
これを考え出した人を
尊敬します
因みに、ボタンセラックなど
フレーク状ではなく
厚みがある原料は

次にコーヒーミルでさらに
細かく砕きます
まさかコーヒーミルが
こんなところで
役に立つとは
思いもしませんでした・・
動画をUPしました

砕いたセラック適量を瓶に入れ
3倍ほどの容量のアルコールで溶かします
私は変性エタノールを
使っています

アルコールを入れ
瓶を振って撹拌すると
間もなくセラックは
ゲル状に固まり
瓶の底に沈殿します
瓶を立てたままにしておくと
底で固まったセラックが
溶けにくいので
写真のように斜めに
立て掛けておき
2~3時間おきに瓶を1/4ほどグルリと回転させます
そうすると底に溜まった
ゲル状のセラックが移動し
撹拌され溶けやすくなります
こうすると数日で溶けますが
私は念のため
1週間ほど放置しています

完全に溶けたら
濾し紙で濾過します
これは以前溶かしておいた
レモン・セラックです

セラックの原料は
精製の状態にもよりますが
変質するとアルコールに
溶けなくなります
これまでの経験では
レモン・セラックで5~6年
無色セラック(Shellac sun)だと3年ほどで変質します
ですから私は原料はドイツから少量ずつ取り寄せ
無色セラックは
冷凍保存しています
参考までに輸入先はHAMMERLです


2011年9月19日月曜日

工房の様子 ニス塗りにかかりました


製作中の特注ラプレヴォット・タイプ二台
ニス塗りにかかりました
以下の画像は木地仕上を終えた状態







2011年9月15日木曜日

今日の工房 ブリッジの接着


製作中の特注ラプレヴォット・タイプ二台
ブリッジを膠(ニカワ)で接着しました




2011年9月10日土曜日

篠山ヤケヤノ坪遺跡で弥生時代の鉄斧出土


兵庫県篠山市西岡屋にある
ヤケヤノ坪遺跡と西岡屋遺跡の
現地説明会に足を運びました
 これは今回出土したものの中で最も注目されている、ヤケヤノ坪遺跡で発見された鉄斧の一部とされるものですが、時代は紀元100年頃だということです。
以前述べたように、この頃は北部九州王国(福岡県北部)、出雲王国(島根県)、吉備王国(岡山県)、丹後王国(京都府北部)が各地で同時に勢力を誇っていた時代で、その象徴となるものは鉄器でした。それが古代丹波の南に位置する篠山から出土したことの意義は大きいものと思われます。というのは、一般的に古代丹波は日本海側の丹後も含まれていたとされているのですが、鉄斧が出土した今回の遺跡には播磨系の土器も発見されているのです。ということは、弥生時代後期のこの方形周溝墓に埋葬されていた人物は播磨(兵庫県南部)との関係が強かったという見方もできるわけで、その人物に副葬された鉄斧も播磨からもたらされた可能性があるわけです。

それから、丹後で出土している内行花文鏡や貨泉、
陶塤(とうけん)が篠山ではまだ発見されていないというのも引っかかります。ですから篠山は播磨系だった可能性があることになり、しかもルートは西に進む篠山川沿いではなく、南に下る武庫川沿いだったということになりそうです。篠山川下流に位置する丹波市山南町では丹後系の土器が出土しているので、このあたりは丹後の勢力圏であったことが考えられるのです(参照4段目)。
しかし時代は3世紀頃とされているので、やや無理があるのですが・・。
それからこれも以前に述べたことですが、武庫川を南下するルートは、銅が採掘されていた味間から白髪岳~酒滴神社~三田市を経由して西に進み播磨に至るものです。このことはこれまで三回にわたって述べてきた「不思議な符合 飛騨の位山と芦屋市」とも関係してくることでもあるのです。

播磨系の土器


これらは地元で焼かれたもの
だということです



ヤケヤノ坪遺跡
鉄斧は周溝墓3から出土したということです 


2011年9月9日金曜日

今日の工房 縁飾りの接着



製作中の二台の特注ラプレヴォット・タイプ
今日は縁飾りを仕上げました









同時製作中の裏フラット型18弦Boxハープ


2011年9月3日土曜日

不思議な符合 飛騨の位山と芦屋市 その3

8月12日に述べたように、兵庫県芦屋市には打出小槌町とい地名があるのですが、打出の小槌といえば七福神の一神である大黒天が持っているものでもあります。
大黒天は元はインドの神とされていますが、古代出雲の最後の王とも云える大国主命習合されています。これは平安時代以降のことのようですが、なぜ習合されたのか興味が湧くところであります。
大黒天の持ち物としてもう一つ、左手で背に担いでいる袋がありますが、これは元々は砂金を運ぶためのものだったという説や、銅鐸民族である古代出雲国が古墳文化を持った民族により奴隷化された際に、古墳造営のために土運びに使ったという説などがあります。

この銅鐸は芦屋市の打出小町から出土しているものですが
表面に流水紋のある古形銅です。
高さ45.5cm 重さ4.7kg
因みに、大宰府の観世音寺には日本最古とされる大黒天立像(木造)が宝蔵されていますが、この像では小槌は持っていません。顔も福々しい笑顔ではないので、インドの神と習合される前の大国主かもしれません。
大黒天と習合された後は右手に小槌を持っていますから、これを使って山で採集した鉱物を入れていたということも考えられます。ということは、12日に紹介した岐阜県飛騨の位山(くらいやま)の岩に刻まれた槌の形をした古代文字と大国主命は何らかの関連があるのかもしれません。
先に述べたように、古代出雲国は銅鐸民族でしたが、それと同時に亀をトーテムとする民族でもありました。出雲大社をはじめ出雲の神社に亀甲紋の社紋が多いのはその名残と云えます(参照)。
これは敷衍して、亀という字が含まれる地名にも名残があるとも云えます。
私が7歳から18歳まで住んでいた福岡県の亀山という地名もそうだと思いますが(参照)、それを裏付けるようにこの地域では古代から金属精錬や加工が行われていました。また、以前紹介した春日市も近くにあります(参照)。このように、亀をトーテムとする銅鐸民族は当然銅の精錬や加工にも通じていたのですが、その後、大国主の国譲りの神話から伺えるように、新たに日本列島に入って来た民族により征服されす。それが白鳥をトーテムとする民族なのですが、これはおそらく朝鮮半島からやって来た最先端の製鉄技術と鉄加工技術を持った民族だったものと思われます。天日槍(アメノヒボコ)はおそらくこの民族だと思われますが、この民族が日本の古墳時代を創り上げていくわけです(参照)。
こういったことを考えてみると、日本で古くから歌い継がれてきた「かごめ かごめ」のなかに、「鶴と亀がすべった」という表現がありますが、これは意味が深いことになります・・

新國民社刊 鹿島曻著「倭と王朝」から転載
北海道で発見されている殷字が刻まれている石
小樽市と余市の境界付近で
発見されたということですが
鹿島曻氏はこの地域を殷をルーツとする
辰国の北限としています

沖縄で発見されたもの
同様のものが他にも発見されています

宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する
天岩戸神社で発見されたとされる岩蓋
文政四年(1821年)に発見されたということですが
小型の箱式石棺の蓋(ふた)石だったということです
石棺内には銅鏡七面と四個の土器が副葬されていたということで小型の箱式石棺ということと副葬品の銅鏡に大鏡が含まれていることから
時代は弥生時代後期頃と思われます
文字が刻まれた蓋石と石棺が
同じ時代とは限りませんが・・・

この岩戸文字が発見された後
明治八年(1875年)、大分県で上記(うえつふみ)
発見され、そのなかの文字の解説により
この岩戸文字が解読されたということです

明治八年の読み
それみきみ みつみ お
ほえこれのうつはわ
ほのあかりのみことこれのあめのいわとに
こもりますときにあそひのそなえ
にまつるひとのおおみかかみわ
すめおおみかみのみたまとしてあめ
のいわやとにのこしもちいたししなる
をあめのいわやどのこれのきしにい
わもてよひらにたてて
かくしおくなり

昭和7年に記された
「高千穂古文字伝」より
田近長陽氏による読み
ソヂ ミキミカミツミカミケ
ミカトヲ(モ)ホエ コレノウツハワ
ホノアカリノミコトコレノ アメノイワトニ
コモリマストキノアソビノソナエニマツル
ヒトツノオ々ミカミワ
ハメヲ々ミカミノミタマシテ
アメノイアワトニノコシモチ イダシナルヲ
アメノイワヤドノコチノキシニ
イワモテヲヒラニタテ
カクシオクナリ

参考として
藤芳義男氏による解読
それ 神酒みき 甕みか 水みづ 甕みか
神食みけ 甕みか と覚おぼえ 是これの うつは
火明命ほのあかりのみこと これの天あめの岩戸いわと
に 籠こもります時ときの遊あそびの供そなえ
に奉つる 一とつの大おお御鏡みかがみ
すめ大御神おおみかみの御霊みたまとして天あめ
岩戸いわとに残のこし持もちいだししなるを 
あめの岩屋戸いわやどの 是これの岸きしに岩いわもて
ひらに立てて かくし置くなり

次に高橋良典氏による解読
祖母ゆ開かれつる神避るヶ戸を掘り
これに無戸籠うつくま
火明ほのあかりの御代みよに 天之岩戸へ籠こもります
時に阿蘇火のそば地震なゐへわたり
タカヒメの祖おや ツカヤリは
皇祖すめをやゆかりの蓋ふたつくりて
天之岩戸へ逃れき
地怒り唸うなるを 天之岩戸屋殿籠り
救へ岩守りて 生きながらえたり
由来いはれを吐けり

平中芳明氏による解読
それ みきみ みつみ お 
(相手側、満気身、密身、緒)
そちらは、気が満ちた御身、
きめ細かい綿密な御身、魂を繋ぐ緒

ほえ これの うつは わ 
(誉、恵、こちら側、打つ、葉、和)
秀でた叡智の、こちらの、
心を打つ言葉が上手く混ざる

ほの あかりの みこと これの あめのいわとに
 (誉、証、尊、こちら側、天岩戸)
秀でた証の尊 こちらの天の簡単には
動かない磐戸に

こもります ときに あそ ひの そなえ
 (籠、時、彼方側、秘、備)
籠ります時に、こちらからもそちらからも
遠いあちらの密かな備えをする。

に まつる ひとの お おみ かかみ わ
 (二、祀、尊、緒、御身、加佳味、和)
再び祀る時、尊き人の魂の緒、
御身に要素が加わり良い趣きに、
上手く混ざり和合する

すめおおみかみの みたま として あめ
皇大御神の御魂として

のいわやとに のこし もち いたし しなる 
(岩屋戸、残、保つ、至、品)
天の岩屋戸に保管して成熟するように

を あめのいわやどの これの きしに い 
(天岩屋戸、こちら側、居)
天の岩屋戸のこちらの側に居て

わ もて よひらに たてて
 (和、以て、四方、盾)
協力して四方を護って

かくし おくなり (隠、置)
人の目にふれないようにして置く

あります

2011年9月2日金曜日

繰り小刀を研ぐ


繰り小刀の研ぎ動画の画像

中研ぎ
シャプトン「刃の黒幕」#1000




次に伊予砥 




そして最後の中研ぎとして三河中名倉





 仕上研ぎ中継ぎ用曇り砥
京都新田産白巣板





鏡面仕上げは産地不明
滋賀県高島産か・・?